よさこい

僕は、「よさこい」が嫌いである。こう断言しながらも、よくよく考えてみると、「よさこい」についてほとんどなにも知らないことに気がついた。
僕の頭の中にあるよさこいは、

  • みんながお揃いのかなりオリジナルなデザインのはっぴを着ている
  • よさこい仲間で創作ダンス的なものを踊る
  • 練習はけっこう厳しく、本気。がんばる。踊っている間は最高の笑顔で!
  • よさこいを踊り終えた後、感極まってみんなで泣く(感動的なシーン)

書き出してみて気がついたけれど、ここにそれほど嫌悪感を感じる要素は何もない。一生懸命みんなで力を合わせ、全力で楽しもうとするいい姿勢なんじゃないか。どうして僕の心の奥底からよさこいを否定する感情が生まれてしまうのか考えてみました。今まで受け付けなかったものが、年とともに*1「許せる」「受け付ける」ようになってきても、「よさこい」だけはなんだか「別にいいじゃないか」と思えず、どうにもしっくりこない。僕にしっくりこられてもこられなくなくても「よさこい」的にはまったく影響はないと思うが。

  • 古い踊りの「よさこい」と違う、妙なアレンジのセンスが「なにか違う感」を生成している
  • とにかく集団で一生懸命やっているものはなんだかうけつけない(斜めから物事を見てしまうスタンスゆえか)
  • 強引な「祭りの活性化」の力を感じるから


いろいろな理由を考えてみているうちに、僕が嫌いなのは「よさこい」そのものだけではなく、「よさこい」に象徴される「祭」のようなもの、集団でなにかをやりとげるものかもしれないと考えはじめました。学校に行っていたときの「運動会」「体育祭」「文化祭」などの行事の度に、もっと乗っかったら楽しいし、否定する理由もないはずなのに、どうにも一緒に楽しんだりがんばれない感じに似ている。「体育祭」のときに、クラスで揃いの変なTシャツを着たり、謎の応援歌を歌わされたりしたっけ。

結論もなにもなく終わります。やっぱり「よさこい」という言葉を目にしたり、聞いたりするともやもやしたなんともいえない気持ちになるなぁ。
考えすぎて、「よさこい」がなんなのかわからなくなってきて、顔面を真っ白に塗った、ヨーロッパのデザイナーが新作を発表するファッションショーで発表される日本風のキモノ・ドレスを着た目の釣りあがった女の人がシャモジを両手に持ち、それを激しく鳴らしながら「おまえもひとつになる、すべてはゼロに帰結するのじゃ!」と絶叫しながら「ヨサコイヨサコイヨサコイ」とカバティさながらに追い詰められていく自分のイメージが浮かんでいます。

広末涼子は、いまでもよさこいの時期になるとソワソワして帰りたくなるんだろうか。ヨーロッパにいる、リオデジャネイロ周辺出身のブラジル人がリオのカーニバルが近づくと強烈なホームシックに襲われるように。

*1:傲慢な言い方ではあるけれど